神社合祀に関する意見(口語訳11)
南方熊楠
(至極の秘密の儀法)
当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方では愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称する。どうして下痢を停めようとして氷を食らうのと異なるだろうか。このように神社を乱合し、神職を増し置き増給して神道を張り国民を感化しようということだが、神職の多くは国民を感化できるような人ではない。おおむね我利我慾の徒であるのは、上にしばしばいったとおりである。国民の教化に何の効があるだろうか。
一方、心底から民心を感化させることができるのは、決して言筆ばかりではない。支那に祭祀礼楽と言い、欧州では美術、音楽、公園、博物館、はなはだしきは裸体の画像すら自由に見させて、遠廻しながらひたすらわずかの時間でも民の邪念を払い鬱憤を発散させることに汲々としている。いずれも人心慰安、思慮清浄を求めるのに不言不筆の感化力に 待たないわけにはいかないを知悉しているからである。
わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来があるのを、どのような無学無筆の輩にまでも円悟徹底させるすばらしい至極の秘密の儀法ではなかろうか。それだけでなく、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功がある。
それを支那の王安石のような偏見で、西湖を埋めるには別にその土泥を容れることができる大湖を穿たないわけにはいかないのに気づかず、利獲のみを念じ過ぎて神林を失うと、これが田地に大きな虫害を招致する原因であることを思わず、非義(道理に外れた)饕餮(とうてつ)の神職から口先ばかりの陳腐な説教を無理に聞かせて、その聴衆がこれを聞かないうちから、すでに神職輩の非義我慾に感染するであろうことを想わないのは無念至極である。
この神職輩の年に一度という講習大会の様子を見るに、(1)素盞嗚尊(すさのおのみこと)と月読尊(つきよみのみこと)とは同神か異神か、(2)高天の原はどちらのほうにあるのか、(3)持統天皇、春過ぎての歌の真意はどうかなど、呆れ返ったことを問いに県の役人が来るが、よい加減な返事を一、二人の先達がするのを、十余人が黙して聞いているのだ。米の安くない世に、これはまあ無用の人のために冗職を設けたことだと驚き入るばかりである。このような人物は、当分史蹟天然物保存会の番人として神社を守らせて、追い追いそれにふさわしい人を選び、その俸給を増やすことが願われる。
世に喧伝する平田内相は報徳宗にかぶれ、神社を滅するのは無税地を有税地とする近道であるとして、もっとも合祀を励行されたという。どうして知らないのか、その報徳宗の元祖二宮氏は、田をむやみに多く開くよりは、少々の田を念を入れて耕せ、と説いたのではなかったか。たとえ田畑を開け国庫に収入が増えたとしても、国民が元気を失い、我利に努め、はなはだしきは千百年来の由緒があり、いずれも皇室に縁故ある諸神を祀っている神社を破壊、公売するのだから、見習って不届き至極の破壊主義を思いつくようでは、国家にとって何という不祥事か。
近ごろ英国の高名の勢力家で、しばしば日本学会でわが公使、大使に対し聖上のおんために乾盃を上げる役を勧めている名士よりの来状にこうあった。
「むかし外夷種がローマ帝国を支配するに及び、政略上からキリスト教に改宗してローマ在来の宗教が偶像を祭るのは罪深いといってこれを厳禁したのは、人民に親切でも何でもなく、実は古教の堂塔に蔵している無数の財宝を奪って官庫に満たすため。よって古教が亡びてまもなくローマ帝国の民は元気沮喪し四分八裂して亡滅してしまった。
露国もまたペートル帝以来不断西欧の文化を輸入し、宗教興隆と称して百姓ども仕来りの古儀旧式を撲滅しようとしたが、百姓にも五分の魂、なかなか承知せず、今も古儀旧法を墨守する者はなはだ多く、何でもない宗儀作法の乖背(※かいはい:そむき反すること※)から、民の心が帝室を離れ、皇帝を魔王(サタン)と呼ぶようになり、これが近世しばしば起こる百姓乱や虚無党や自殺倶楽部の有力な遠因となった。
盛邦が近年神道を興すといって瑣末な柏手(かしわで)の打ち様や歩き振りを神職養成と称して教えこみ、実は所得税を多く取るために神職を増加し、その俸給を増やさせて、売れ行きの悪い公債証書を売りつけるために無理早速に神社基本金を積まさせる算段と思われる。財政が乱れているのは救う日もあるだろう。国民の気質が崩れては収拾することができなくなる。私は貴国のために深くこれを惜しむ」と。
岡目八目(おかめはちもく)で言いたいままの放語と思うけれど、久しく本邦に在留した英人が、木戸、後藤諸氏草創の難に思い比べて、禁じようとして禁じ得えない激語と見えた。とにかく、かかる評判が外国著名の人より発せられるのは、近来日本公債が外国市場で非常に下落しているのに参照してはなはだ面白かくない。
正直の頭(こうべ)に宿るという神を奉祀する神職と、何の深い念慮もない月給取りが、あるいは脅迫あるいは甘言で用いて強制的に人民に請願書に調印させて、さて政府に向かっては人民は合祀を好んで請願するといい、人民に向かっては政府の厳命である、違反すれば入獄させるといって二重に詐偽を行ないながら、褒美に預かり模範吏と推称されるるのは、民を導くのに詐(いつわ)ることをもってするもので、詐りより生ずることは必ず堂々と真面目一直線に行ない遂げないものである。
すでに和歌山県ごときは、一方に合祀励行中の社があるのと同時に、他の一方では復社を許可されることもある。この村には一年百円を費やさなければ古社も保存を許されないのに、かの村では一年二十円内外を払って、しかも月次幣帛料を受ける社が二、三並び存置されることもあり。今では前後雑糅、県庁も処分に持て余しているのだ。このようなことなので到底合祀の好結果は短日月に見ることはできない、そのうちに人心離散、神道衰頽、罪悪増長、鬱憤発昂、何とも名状できない状態に至るであろうことを杞憂する。
結局、神社合祀は、内では、人民を堕落させ、外では、他国人の指嘲を招く原因であるので、このことがいまだ全国に普及しない今日、きっぱりとその中止を命じ、合祀励行で止むを得ず合祀した諸社の跡地で完全に残存するものは、事情審査の上人民の懇望あればこれの復旧を許可し、今後新たに神社を建てようとするものがあれば、容易に許可せず、十二分の注意を加えることとし、さてまことに神道興隆を謀られるには、今日自身の給料のために多年奉祀し、衣食してきた神社の撲滅を謳歌欣喜するような弱志反覆の俗神職らに一任せず、漸をもってその人を選び、任じ、永久の年月を寛仮し規定して、急がず、しかも怠たらせず、五千円なり一万円なり、十万、二十万円なり、その地その民に、応分に塵より積んで山ほどの基本財産を積ませ、徐々に神職の俸給を増し、一社たりとも古社を多く存立させ、口先で愛国心を唱えるを止めて、アウギュスト・コムトが望んだように、神職が世間一切の相談役という大任に当たり、国福を増進し、聖化を賛翼し奉ることに尽力するよう御示導あることを為政当局に望むのである。
右は請願書のようだけれど、小生はこのような長たらしい請願書など出すつもりはない。何とぞ愛国篤志の人士が一人でもこれを読んでその要点を摘み、効果のあるよう演説されることを望む。「約は博より来たる」というゆえ、心中存するところ一切余さず書き綴るものである。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収
