南方熊楠のキャラメル箱

神社合祀に関する意見(口語訳9)

神社合祀に関する意見(口語訳)

  • 1 神社合祀の問題点
  • 2 三重県で神社数が7分の1に
  • 3 熊野の惨状
  • 4 熊野古道の惨状
  • 5 神社合祀の悪結果 第1〜2
  • 6 神社合祀の悪結果 第3
  • 7 神社合祀の悪結果 第4
  • 8 神社合祀の悪結果 第5〜6
  • 9 神社合祀の悪結果 第7
  • 10 神社合祀の悪結果 第8
  • 11 至極の秘密の儀法

  • 神社合祀に関する意見(口語訳9)


    南方熊楠




     (神社合祀の悪結果 第7)





     第七
     神社合祀は史蹟と古伝を滅却する。


     史蹟保存が本邦に必要なのは、史蹟天然物保存会が中心となって主張するところなので、予の細説は必要としない。ただし、かの会よりいまだ十分に神社合祀に反対の意見を公けにされないのは大いに遺憾である。よって少し自分の意見を述べるが、久米邦武博士の『南北朝史』に見えたように、南北朝分立以前、本邦の土地は多くは寺社の領分であった。したがって、著名の豪族はみな寺社領より起こった。近江の佐々木社より佐々木氏、下野の宇都宮の社司より宇都宮氏、香椎・宇佐の両社領より大友氏が勃興したがごとくである。しかしなばがら、今むやみに合祀を励行し、その跡を大急ぎに滅尽し、古蹟、古文書、什宝をややもすれば精査を経ずに散失亡失するようでは、わが邦が古いというばかりで古い証拠がなくなるのである。

     現に和歌山県の県誌編纂主裁内村義城氏は新聞紙で、今までのような合祀の遣り方では、到底確実な郷土誌の編纂は望むことができない、と公言している。日高郡には大塔宮が熊野落ちのおりお過ごしになった御遺蹟が多かったが、審査しないうちに合祀のためにすでに絶滅したものが多いという。有田郡なども南朝の皇孫が久しくお拠りになった所々を合祀のために分からないことに成ってしまった。

     また一般人は史蹟と言うと、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所だけを保存すべきように考えるようだが、実はそうではない。近世欧米で民俗学(フォルクスクンテ)が大いに起こり、政府も個人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵された。例えると一箇人に伝記あるのと均しく、一国に史籍がある。さて一個人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳にないことも、幼少のとき用いた玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣した寺社や祭典を見ると、多少自分幼少の事歴を明らかにすることができるように、地方ごとに史籍に載らない固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等がある。これを精査するのに道をもってすると、記録のみでは知ることができない一国民、一地方民の有史書前の履歴が明らかになるのだ。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、名門貴族の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らかにするには、必ず民俗学の講究を必要とする。

     紀州日高郡産湯(うぶゆ)浦という大字の八幡宮に産湯の井がある。土地の言い伝えに、応神帝降誕のみぎり、この井の水を沸(わ)かしてお洗い申し上げたという。そのとき用いた火を後世まで伝えて消さなかった。村中近年までこの火を分かち、式事に用いた。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡であったことを知るだけではなく、古えわが邦に特に火を重んずる風習があったを知ることができる。実に有記録前の歴史を視るのに大要がある。しかしながら例の一村一社制でこの社を潰そうとしたため、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、これは国体を害する大事であるといって大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、頭立った者八人が収監されて数ヶ月が経ったが、無罪放免でその社は合祀を免れた。

     その隣村に衣奈(えな)八幡がある。応神帝の胞衣(えな)を埋めた跡と言い伝え、なかなかの大社で、直立の石段百二段は近村の寺塔よりはるかに高い。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威あらたかであったが、例の基本財産を作るといって大部分の冬青(もちのき)林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐(とりもち)を作らせた。基本金はどうか知らないが、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることはおびただしい。これらも研究の仕方によっては、皇家に上古、胞衣(えな)をどう処理せられたかが分かる材料ともなるはずである。

     その辺にある三尾川(みおかわ)という所は、旧家が十三、四家あり、家々ごとの祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲んでいた。祖先崇拝の古風が残っていたのだ。それなのに、かかる社十三、四を一所に合集させて、その基本財産を作れといって件の老樟をことごとく伐らせた。そして今度はその十数社をことごとく他の大字へ合併させたのだ。

     和歌山市に近い岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたと唄う童謡がある。熊楠がロンドンにあった日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めてあるのだろうと思い、これを徳川頼倫侯に話したことがある。侯は、熊楠の言によったか否かは知らないが、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏が赴き掘ったところ、貴重な上古の遺品をおびただしく発見した、と雑誌で見た。英国のリッブル河辺の民には、昔より一の丘の上に登り一の谷を見ると英国無双の宝物を得ることができるという古伝がある。嘘だと思い気に掛ける人はなかったが、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物を無数に掘り出した。

     紀州西牟婁郡の滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟で、奥州の秀衡建立の七堂伽藍があった。金をもって装飾していたが天正の兵火で亡失した。某の木の某の方角に黄金を埋めたという歌を伝える。数年前その所を考え出し、夜中大きな金塊を掘り得て逐電した者があるという。

     このような有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多い。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるのだ。その他にも比類のことが多い。それなのに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊し尽くすため、国宝ともなるべき学者の研究を要する古物珍品が絶えず失われ、たまたまその道の人の手に入っても出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功がないことが多い。合祀のためこのような嘆かわしきことが多く行なわれるのは、前日増田于信氏が史蹟保存会で述べていたと承る。

     大和では武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮趾を潰した、と聞く。このような名蹟を畑として米の四、五俵得たとして何の穫利なのか。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭(こうせん)は上がるのだ。また備前国邑久(おく)郡朝日村の飯盛(いいもり)神社は、旧藩主の崇敬厚かった大きな塚を祭る。中央に頭分(かしらぶん)を埋め、周囲に子分(こぶん)の遺体を埋めた跡がある。俗に平経盛の塚という。経盛の塚だけならば、この人敦盛という美少年の父であったというばかりで、わが国に何の殊勲があったとも聞かないので、潰すのもあるいは許せる。しかしながらこの辺に神軍(かみいくさ)の伝説がのこり、また石の鏃(やじり)などが出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物ではない。故に上古の墳墓制、史書に載らない時代の制を考えるのに、はなはだ有効の材料である。これも合祀のため荒寥し、早晩畑になってしまうのだろう。

     古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民はないとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言われるのを聞く。なので誰の物と分からなくとも、古えの制度風俗を察することができる物は、みな保存しさえすれば、即急に分からなくとも、追い追いいろいろの新発見も出るのだ。和歌山市の岡の宮という社は、元禄ごろまでは九頭(くず)大明神と仏説に九頭の竜王を祭っているような名で誰も気に留めなかったが、その社の隅にあった黒煤(くろすす)けた箱の書付から気がつき、この地は『続日本紀』に見えた通り、聖武天皇が紀伊国岡の宮にお留まりになったという御旧蹟であることを見出だしたため、今の名に改めたのである。昨年一月拝承すると、皇族二千余方(かた)の内ただ四百九十方のみ御墓の所在が知れている由。神社はもっとも皇族に関係深いので一切保存して徐々に詮議すべきなのに、無茶苦茶に乱滅してしまうのは、あたかも皇族華冑の遺跡が分からないうちに乱滅するのはとどのつまり厄介払いというように相聞こえ、まことに恐懼憤慨の至りである。合祀が、史蹟を乱すと、風俗制度の古えを察するのに大害あることはかくのごとしである。

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    「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収




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